日本史上最大の被害を出した獣害は、北海道であったヒグマによる事件。 
この事件以後もヒグマの被害は続発し、北海道開拓の妨げともなっていた時期がある。 
北海道をバイク旅行した時に言われたのは、「だから野宿なんかしないようにしろ」と言う事だった。 
このご時勢に熊?
北海道が嘗てヒグマの被害に悩まされた経緯等知らない俺は、内心全く信じていなかった。 
第一、熊なんて見たこともないし、時折事件になるにしても、自分とは無関係な世界の出来事だった。 
そんな訳で「気をつける」と言って旅館を引き払い、地図を見ながらこのあたりに野宿しよう等と考えていた。 
バイク専用のホテルはあるが、別に夏から秋に掛けての時期なので、夜の寒さは余り気にならなかったから、
野宿でも問題ないだろうと考えていたのだ。 
熊が出る云々など、この時は綺麗に忘れていた。 

夕暮れ近くまで走り、国道沿いにある小さな公園を見つけたので、ここで野宿することにした。 
地図には載っていないが、周りに民家もないために、不審者として通報される事もなさそうだったのが理由。 
公園と言っても、今にも壊れそうなベンチと、ブランコと、小さな砂場らしき物があるだけだった。 
街灯もない為に、月光以外に明かりのないこの公園は、耳鳴りがするような静けさだった。 
明らかに手入れされていないこの場所は実に不気味で、一人きりで野宿する事を後悔した記憶がある。 
闇が怖いと感じたのは、この時が初めてだった。 
何しろ、自分の呼吸音すら周りに響いているのではないか?と言う位の無音の世界に取り残されると、 
早く朝になってくれと、心のそこから思ったものだ。 
一人用のテントの中に潜り込むと、MDを聞きながら早々に寝た。 
何か人工の音を聞いていないと、怖かったからだ。 

ふと、テントの外から何か音が聞こえた。 
脇に置いた腕時計を見ると、微かに光る文字盤が夜中の一時をさしており、
寝入ってから三時間ぐらい経っていた。
MDはとっくに終わっており、だからこそ外の音が聞こえたのだろう。 
ずる・・・ずる・・・。 
何かを重い物を引きずる様なその音は、段々近くに寄ってくる。 
その意味不明の音をぼんやり聞いていたが、次の瞬間一気に目が覚める。 
『熊に気をつけろ』 
旅館の主人の言葉が、予言のように脳裏によぎったからだ。 
テントの中にむせ返るような臭さの獣臭?が入ってくると、オレの心臓は16ビートを記録した。 
しかし、いつまでたってもテントに対してちょっかいを出してこない事で、少しだけ思考が戻った。 
がくがく震える体を叱咤してそっと、テントの外に聞き耳を立てると、
ほんの微かに獣の荒い息に混じって、人の声のようなものが聞こえる。 
「・・・・・・・・・・」
何と言っているのか全く聞こえないが、苦しそうな声?だった。 
いや、うめき声というものかもしれない。息苦しくなるような感覚を催した記憶がある。 
テントの外を見ようとして入り口に手を掛けるが、震えてなかなか開けなかった。 
とっさに、近くにあったタオルを口に押し込む。
顎が外れんばかりに、ガタガタといい出したからだ。 
金縛りにあったように、その光景から目を離せない。 
耳に、咀嚼音がこびり付く。 
血と排泄物の臭いが辺りに充満していくのがわかったが、どうしようもなかった。 
真っ黒い大きな塊が、人らしきものの上に覆いかぶさり、腹の辺りに頭を突っ込んでいる。 
そいつが顔を上げるともろに、オレと目が合う様な位置だ。 
押さえつけられた人?は仰向けで、頭と足を黒い塊の前足らしきもので押さえつけられている。 
その腕が時折痙攣し、着けている時計が月明かりで黄金色に反射して、オレの目を奪う。 
顔は見えないが、苦痛のうめき声が止まらない。 

時間にしてどれだけだろうか? 
いつの間にか気を失っていたようで、目を覚ますと頭上に太陽が見えた。 
時計は15時を差している。 
オレはすぐさま逃げ出そうとしたが、ふと、襲われていた人間の事が気になった。 
助かるわけない。早く逃げるべきだ!! 
その時は、他人のことよりも自分の身が大事だった。 
あの光景を見た後では、ロッテンもオグリも今となっては何も感じない。 
あれは、テントの目の前で起きていたはずだ。 
・・・なのに、何もなかった。 
それどころか、公園内には血もその臭いも、熊のいた痕跡すら無かった。 
リアルな夢でも見ていたのだろうかと思ったが、思い出すだけで吐き気と震えが来る。 
とても、夢とは思えなかった。 
暫く呆然としていたが、熊がいる可能性がオレを正気に戻した。 
慌てて金目の物と、最低限の物資をリュックに詰め込む。 
テントも、ランタンも高価であったが、放置して逃げ出した。 

夢中で道を引き返し、昨日の旅館に戻った時は日も傾きかけていた。 
ふと、ミラーを見ると、シャブ中のような顔色のオレ。 
街中を走っていたら、警察に止められそうだった。 
時間を見ようとしたが、どうやら逃げる時に腕時計を付け忘れたようだった。 
旅館の主人もオレの顔を見て、驚いた様子だった。 
オレの話を聞いた主人は、暫く黙った後で言う。
その公園は、随分前に無くなっているはずだという。 
主人が子供の頃に、公園の傍に小さな集落があったが、
市町村の統廃合の結果、余りに不便な場所なので、其れを期に皆引っ越したらしい。 

翌日、主人と一緒にその場所に行ってみたが、オレの残してあったテント等以外には、何もなかった。 
腕時計はあったが、ふんずけた様でガラスが割れていた。 
そういう訳で、オレはあれを夢だと信じる事にした。 
実際、誰も死んだ痕跡はないし、新聞でもそんな事件は報じていないからだ。 

しかし、オレは旅行をする気分ではなく、早々に帰ることにした。 
せめてもの記念にと、北海道の金時計を買った。
まあ、これぐらいしか思い出にならないというのも無粋な話しだが、何故か、その時計に目を奪われた。 
頑丈なので、今でもその時計を大事にしている。

今年の夏は、もう一度あのルートで北海道旅行に挑戦するつもりだ。 
それは、幽霊なんていないという、確証が欲しかった為でもある。